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いつも何かに必死な私たち
今年の夏休みは、車で出かけることが多く、日帰り、宿泊を伴う予定を含め、ほとんど毎日、高速道路を運転していました。
私は、車の運転をするととても疲れます。
ただ、それは、安全に走ることや道を間違えないようにするなど、「運転する」という行為そのものによってではありません。運転自体は好きですし、むしろ得意だと思っています。
それなのに、車の運転がなぜこんなにも疲れるのでしょうか。
疲れの正体
運転しているとき、私は絶えず周囲から様々なことを感じ取ります。たとえば、
バックミラーに映る後ろの車が、通常よりも大きく見える
→ 私の車が遅いので、イライラしているんだろう
隣のレーンに車線変更したいときに、車間がつまっていて入れない
→ 横入りするずるい奴には譲らないというわけだな
真っ黒で、いかついセダンの外車が走っている
→ この車に下手に関わると危ないことになりそうだ…
こうした分かりやすい例に限らず、周りを走っている車の細かい動きや、自分の車との微細な関係、そして車そのものからいろいろな意図・感情・メッセージを感じ取り続けているのです。
その中には、実際に運転手がそうした意図や感情を持っていて、それがそのまま伝わっているという場合もあるでしょう。しかし、車そのものは意思や感情を表出したり、メッセージを発信したりするようなことはもちろんありません。それなのに、意図や感情、メッセージがあたかもあるかのように感じてしまっているのです。
よく「出来事自体には意味はなく、人の解釈構造が出来事に意味を付与している」といわれます。
このことを踏まえると、周囲から受け取っていると思っていた意図や感情、メッセージは、実際には車の動きや車種に対する私の「解釈」が創り出しているということになります。つまり、「このタイミングでこういう動きをするということは、こんなことを思っているに違いない」と私が意味を付与しているのです。
こうした私自身の「解釈」を元にした「意味の付与」によって生み出される「良くないことが起こりそう」というネガティブな予測とその防衛反応の繰り返しが、どうやら私が運転していてとても疲れを感じることの要因のようです。
ただ、そんな私が、そうした疲れをほとんど感じずに運転を終えたことが一度だけありました。しかも、その日の走行距離や運転時間は、他の日よりもかなり長かったにも関わらず、です。
なぜ疲れずに運転できたのか
その日、一連の予定を終えたあと、家族全員を乗せて帰路を急いでいました。
途中、激しい悪天候のために走行していた高速道路が数キロ先のインターチェンジから通行止めになってしまいました。短時間で天候が回復する見込みは薄く、走行車両はすべてそのインターチェンジから出ないといけなくなりました。
片側三車線の道がいきなり封鎖になったことで、出口に向けて車は大混雑。長時間、周囲の車の挙動や存在にさぞかし苛まれると思われるシチュエーションでした。
ところが、不思議なことにそうはなりませんでした。
といっても、たまたま周囲の車の素行が良く、穏便そうな車ばかりが走っていたわけではありません。むしろ、我先にというシチュエーションでしたので、いつも以上に周囲の車の動きは酷かったように思います。
にも関わらず、いつものネガティブな予測と防衛反応は起きなかったのです。
というのも、外は身の危険を感じるほどの雷雨。私は、いかに無事に家族全員が帰れるかということに全神経を集中していました。とにかく必死に「無事に家に帰る」というゴールだけに意識を集中して運転していたのでいつもの解釈構造が作動する暇もなかったのではないでしょうか。
ただ、この考察は確からしい感じがする一方、私たちはそんなにリニアな存在なのだろうかという疑問も拭えません。
そこで、「解釈構造が作動するか否か」からすこし離れて、こう考えるのはどうでしょうか。
「私たちはいつも何かに必死なんだ」と。
本当に手に入れたいこと
私たちは、その時その時で手に入れたいことに向かって、常に必死になっている。そして、その「手に入れたいこと」への焦点が私たちの意識と行動を司っている。
つまり、常に「手に入れたいこと」に焦点を当てそれを手に入れているという点で、私たちはとても理に適った存在なのです。
あの悪天候の日、身の危険を感じる環境下では「無事に家に帰る」という何としてでも手に入れたいことが私にはありました。
一方で、普段、運転しているときに私が手に入れたいと思っているのはおそらく、「自分の車や自分の運転が尊重されていること」、要するに「自分がしかるべき扱いを受けているか」ということのように思います。だからそれを脅かしそうな周囲の動きに敏感になる。
悪天候といった特別な状況だけでなく、私は普段の運転でも「自分がどう扱われるか」に必死であるということです。
こう考えると、同じような構造が職場など組織の中にもあるような気がします。
「他者からしかるべき扱いを受けている」ということに焦点を当て、それを手に入れることに意識や行動が向かっていると、他者の一つひとつの言動や無意識な仕草までもが自分に対するメッセージのように感じられます。そして、「この組織の中で、自分は大事に思われているだろうか」ということに苛まれます。
道路を走る多くの車からいろんなメッセージを受け取るのと同様に、組織の中では、そこに存在する無数の他者との関係から影響を受けて、「自分がどういう存在なのか」「どう扱われているのか」の確認に必死になっている可能性があるということです。
ただ、手に入れようと今必死になっていることが、「本当に手に入れたいことなのか」を止まって考えてみる必要はありそうです。
「自分がしかるべき扱いを受けること」が満たされているかに終始する限り、他者の動きや存在から影響を受け続けざるを得ず、それによる疲れから逃れるのは困難そうです。ですが、それが「本当に手に入れたいことなのか?」を自分に問い、どうもそうではなさそうだと思ったら、焦点を当てる先を変えることで可能性が開かれていくように思います。
今、あなたが手に入れようと必死になっていることは、本当に手に入れたいことでしょうか?
あなたが「本当に手に入れたいこと」は、何でしょうか?
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