Coach's VIEW は、コーチ・エィのエグゼクティブコーチによるビジネスコラムです。最新のコーチング情報やコーチングに関するリサーチ結果、海外文献や書籍等の紹介を通じて、組織開発やリーダー開発など、グローバルビジネスを加速するヒントを提供しています。
「好きにやりなさい」に付いている注釈
「好きにやりなさいって言われるでしょ?
あれって、”ただし俺の理解できる範囲でな”って注釈が付いているから、実は」
「誰も責任取ってくんないんだから。思うようにやろうよ」
これは2025年10月期にTBS日曜劇場で放送された妻夫木聡氏主演のドラマ『ザ・ロイヤルファミリー』の第8話の一コマです。伝統と格式を重視する競馬界に対して若手の馬主達が不満を漏らすシーンでの台詞でした。
このやり取りは二つの点で胸に迫るものがありました。
「わかるなぁ。本当にそうだよな」という共感の自分と、
「あぁ、自分もきっとやってしまっているな」という反省の自分です。
前者は自分がやりたい挑戦について上層部の承認が得られずに悔しい思いをしてきた自分あり、後者は執行役員の立場で部下がやってみたいと提案してきた挑戦を却下してきた自分です。今も世界中のあちこちで、このような挑戦したい側と承認する側の二つの立場の間ですれ違いが起きているのでしょう。
どのようなリーダーも「あなたは若者の挑戦を推奨しますか?」と問われれば「私は若手の挑戦を心から推奨し、応援する」と言うでしょう。私自身も心底、部下に思い切った挑戦をしてほしいと思っています。ところが、その言葉が嘘になってしまうことがあります。なぜそうなるのでしょうか。
「好きにやりなさい」が嘘になる構造的な理由
生成AIに「挑戦とは?」と聞いてみました。すると以下のように回答が返ってきました。
「成功する保証がない」からこそ挑戦だといえる。ならば、失敗を許容できなければ、挑戦を推奨することはできません。そして挑戦の大きさは、支払う代償の可能性の大きさに比例します。
つまり、本来は推奨していたはずの “思い切った挑戦” や “新しい挑戦”ほど、承認することが難しくなる。
「好きにやりなさい」という言葉に “ただし俺の理解できる範囲でな” という注釈がついてしまうのは、「好きにやりなさい」と言った上司が嘘をついているわけでも強がっているわけでもありません。それは、挑戦というものの構造が生み出す帰結だと言えるのではないでしょうか。
「私には理解できない」という壁の前で
部下の挑戦の中身に対して、はなから賛同できるのであれば苦労はありません。問題は「俺の理解できる範囲」を超えた挑戦が部下から持ち込まれたときです。
挑戦である以上はその成功は保証されていません。挑戦する側もそれを承認し後押しする側も、双方が予測不可能な未来の前に立っている。そして「部下と自分ではどうやら見えている世界が違うらしい。自分には理解できない未来を部下は見据えているようだ」という現実が顕在化する。
きっと、そこで突き付けられているのは
「自分は何を根拠に挑戦へのGOサインを出せるのだろうか?」
という問いです。
自分の直感を根拠にするのか、その部下との間に積み上げてきた信頼の厚みを根拠にするのか。過去の実績、あるいは人柄を根拠にするのか。練られた計画や予測数値を根拠にするのか。あなたは自分の軸が明確になっているでしょうか。
社長S氏が部下の挑戦を一度却下する本当の理由
私のクライアントである社長のS氏は、自分では理解や納得のできない挑戦を部下から提案されたとき、必ず次のように伝えて一度却下するとおっしゃっていました。
「君のアイディアに賛同して、一緒にやりたいという人たちをたくさん集めてから、また来てください」
S氏はその意図をこう説明してくれました。「本気でなければその挑戦に人は集まらない。たとえ自分には理解できない提案であっても、多くの人に成功する未来を信じさせることができるのなら、挑戦させてみる価値があると判断します。それに、一度却下されて諦めて不平不満を言っているようなレベルであれば、そもそも難しい挑戦に成功する見込みはないでしょう。そのあたりも見たいのです」
S氏が「自分は何を根拠に挑戦へのGOサインを出せるのだろうか?」に対する上記の答えを見つけるまでには、きっと様々な葛藤や後悔などがあったのではないかと思います。なぜなら、そもそも予測不可能な未来に対する「根拠」とは、決して成功を裏付けてくれることはなく、自分の信念を言語化したものに過ぎないからです。S氏の静かな口調からは、紆余曲折の中で鍛えられたであろう信念が伝わってきました。
対立するのではなく、両者で何を信じるかを決める
挑戦を後押しする側の葛藤について知った私が挑戦する側だった過去の自分を振り返ると、当時の自分は「挑戦をしたい自分」と「挑戦を認めさせる相手」という対立の構図で物事をとらえており、随分と独りよがりだったことに気がつきます。
当時、私はただひたすらに情熱をぶつけ、しばしば「なんでわかってくれないんだ」といら立ちをぶつけていました。挑戦を後押しする側になった今、当時のリーダー(承認者)の葛藤が手に取るようにわかる気がします。
これまでの文脈で考えてみれば、組織における挑戦とは、挑戦者の孤独な戦いではないのだと思います。承認者もまた、挑戦者と同じ不確実な未来の前に立っている。両者で何を信じるかを決め、どんな結果も引き受けると決める行為、それが挑戦なのではないでしょうか。その行為自体がすでに両者にとっての最初の挑戦になります。対立ではなく協働作業という構図でとらえてみると世界は違って見えてきます。
自分は承認者に何を信じてもらいたいのか?
自分は承認者に何を信じてもらう必要があるのか?
承認者は何を信じようとしているのか?
承認者は何が信じられていないのか?
私たちは何を信じると決めるのか?
自問自答し、そしてできればお互いの信念を話し合ってみてはいかがでしょうか。
《関連記事》
出藍之誉(しゅつらんのほまれ)
この記事を周りの方へシェアしませんか?
※営利、非営利、イントラネットを問わず、本記事を許可なく複製、転用、販売など二次利用することを禁じます。転載、その他の利用のご希望がある場合は、編集部までお問い合わせください。

